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インターネットを使うとマウスのクリックだけで世界につながっていく。世界中の同好者達と出会うことも簡単に出来るようになった。そして我々が日本へ旅行した後は、地球の反対側とのやりとりは頻繁に行われるようになった。ヨーロッパのスポッターはe-mailや公開のメーリングリストを使って、日本のスポッターは掲示板(彼らはBBSと呼ぶ)で行われる。


2002年の終わりに日本の退役した飛行機(F-104スターファイターをもちろん含む)が話題の掲示板に、私がイタリアの現役のスターファイターの写真をアップロードしようととした時に、日本の退役したF-104スターファイターのいくつかの写真がアップロードされていた。引き金を引く”"ooohhhs""aaahhhs"”のかけ声を言うまでもなく、幾人かの日本人スポッターがヨーロッパに来て、”最後のジェット戦闘機”スターファイターを見たいと希望することになった。この時、ヨーロッパの”最後の恐竜(引退間近のジェット戦闘機)”を見に行く旅行の企画が生まれた。多くのスポッターがこの計画に興味を示した。そして、ヨーロッパにいる他の引退間近の戦闘機を見に行く提案がなされた。2002年の12月に最初の計画がまとまり、7人の日本人スポッターがこの旅行に参加を表明した。まず、一番の優先順位はイタリアのF-104、そしてスイスのミラージュIII、オーストリアのドラケンと続く。


公式許可は正式なルートを使って旅行計画などをきちんと決めてなされる。しかし、残念なことに何もかも思ったようにスムースには行かず、色々な事が起こった。イタリアでは、F-104の基地がアチコチに移動していた。スイスではミラージュが旅行を予定していたゴールデンウィークの週はノンフライトウィークだった。そして、最後は丁度ではないものの”湾岸戦争 Click to enlarge -第2幕であるイラク攻撃”の期間と重なってしまった。



これらすべての出来事はほとんど毎日、我々に出発間際まで日程の変更を余儀なくした。これらの出来事は私たちと一緒にヨーロッパを撮影旅行し、いつもきっちりと旅行の計画を立てる日本人達に非常に多くの心配、ストレスと混乱をもたらした。そして、彼らは”ヨーロッパスタイル”の非常にフレキシビリティの高いスケジュールで旅行をすることとなった。



2003年 426日 土曜日

 

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旅行は6人で行くことになった。これは最低2台の車かミニバンを用意しなければならないことを意味する。もし、私たちが自分の車を使うつもりならば私たちは7日間で最低5000kmを走行しなければならない。そんなわけで私たちはアムステルダムからチューリッヒに飛んでそこで9シートのMercedes Vitoをレンタカーで借りることにした。この選択は私たち全員が一台の車で旅行することを可能にし、コミニュケーションやナビゲーションやそれ以上に便利さをもたらした。10時に私たちイワン とフランクは、チューリッヒに到着しこの旅行の最初の参加者であるKenichiと落ち合うことになっていた。しかし、不幸なことにフランクの スポーツバックは飛行機から出てこなかった。そのため彼は着替え無しでこの旅行をスタートしなければ行けなかった。彼の一番大事な荷物であるカメラ機材一式と手回り品(枕を含む)は機内に持ち込んだため無事であった。


チューリッヒで落ち合った我々3人は残りの3人のメンバー(MasamiToruSachiko)と合流するためにミラノに向かった。途中我々はスタンス、エメンなどに寄り道をして外からいくつかの基地を見ていくことにした。エメンは何も見られなかった。スタンスでは真新しいミラージュ3Sとフライトラインにミラージュを見ることができた。その後4時間でミラノに着くはずであったがゴッタルドトンネルが事故だったために、サンベルジノ峠をまわってミラノに行かなければならなかった。このためミラノ-マルペンサ空港に着くのが15分遅れた3人の日本人スポッターは我々に空港ターミナルから電話をかけてきた。そして、ほっとした。合流はとても簡単で、これで”恐竜ツアー(Dino-trip)”の参加メンバーはすべて揃った、フランクのなくなった荷物をのぞいて・・・。彼の荷物はこの午後の間にミラノに届くはずであったが、ヨーロッパのどこかに消えてしまった。気を取り直して我々は最初の宿泊地である空港から Click to enlarge 100kmほど離れたホテルにもう暗くなった道を向かった。


ホテルの部屋に荷物を置いた後、遅い夕食をトルトナの街で食べた。5人はイタリアでもっとも有名な食べ物であるピザを注文した、しかしSachikoはチョット気が進まないので日本で食べているお米とそんなに違いがないと思ってリゾットを注文した。彼女は出てきたリゾットを食べてそれが日本のお米とはにてもにつかないものであり、期待どおりだったものはその形だけであることを発見した。ごめんよ、Sachiko!!



2003年 427日 日曜日


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そのホテルのウエッブサイトは予約したときの見た感じは非常に有望だったのにかかわらず、現実はかなり違った。見たところ外観とロビーは改装しただけで、部屋は40年以上も前のままといった感じ。朝食は完全なイタリアンスタイルのパックに入ったクラッカーとロールパン、フレッシュなハムやチーズはいっさいなし・・・。全く失望した出だしである。しかし、これ以上は悪くならないと願いつつ・・。


驚いたことに8時半から通りの向かいにある巨大ショッピングセンターがあいていることが分かり、我々は開店を待ってフランクの新しい衣類とその他必要な品々を購入することとした。10時頃に宿泊した街から600km先のローマに向かって出発した。途中でいくつかの寄り道をしながらの一日となった。まず最初はピサによろうという計画だ、そしてピサの街に行く途中で美しいトスカナ地方を通り、Luni-La Spezia海軍航空隊基地に立ち寄る予定である。


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そのピサへの途中で道から200mほど入ったところにあるPisa-San Giusto空軍基地に立ち寄った。ここは42°BAに所属するG222C-130輸送機の基地である。言うまでもないことだが、我々はフェンス越しにちらっと基地をのぞいた後、街に入り有名なピサの斜塔を見に行った。ピサの斜塔のすぐそばに車を止め、素晴らしい眺めの中で”観光旅行”を始めた。


明らかに傾いた斜塔はフランクの感覚に非常に強い影響をもたらしてしまった。その結果、この旅行の残りの部分でフランクの撮ったデジカメの写真は明らかに傾いた写真になってしまった。フランク、カメラのせいにするなよ!!


しばしの観光とおみやげ屋さんを楽しんだ後、我々は350km先のローマに行く前に通り沿いに並ぶカフェでお昼ご飯を食べる事にした。午後にはローマに着き、少しの観光をローマで出来ると考えていたが、激しい交通渋滞のせいでローマに暗くなる前に着くことが出来なかった。これにはローマの古代遺跡を見て、歴史的な場所の近くで夕食を食べることが出来ると期待していた一同少しがっかりした。


我々はナポリに行く途中の高速沿いのBagni di Tivoli Click to enlarge に宿を取った。これは明日Grazzaniseへの残りの200kmを高速道路を使って移動するには大変便利なところである。荷物を部屋に置いた後、まともなイタリア料理を食べにレストランを探しに出掛けた。ところが残念なことに見つかったのは中国料理屋だった。仕方なくそこに腰を落ち着けて食事を取ることにした。オランダ人が日本人のスポッターと中華料理屋さんでイタリア料理を食べる・・・。これってちょっと異常な感じ、でもおいしく夕食はいただけた。その後で我々は本場のイタリアンアイスクリームをホテルの隣のアイスクリーム屋で食べ、一日の最後とした。


 

2003年 428日 月曜日


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この日はカメラを使う最初の日である。そして6時に目覚まし時計をセットして残りの200kmを高速道路で移動した。高速道路でもう一つの典型的なイタリアの朝食をautogrill (高速のレストラン兼ガソリンスタンド 注)日本のサービスエリアに相当)でとった後、我々はイヴァンとステファノに会った。イヴァンは今回の旅行のイタリアの部分のアレンジをしてくれ、その上にイタリアの基地見学の案内をしてくれたので


ある。イヴァンを待っている間に我々は前日の売上金を輸送する現金輸送を銃を持って警備しているのを目撃した。イタリアでは”人生はゆっくり、車は速く(life goes slowly and cars go quick)”が標語となっている?? そのため地元のルールに従ってフランクはのろまなMercedes Vito172km/hまで一生懸命加速して運転した。日本人スポッターは自国の高速道路では最高時速120km/hでしか走れないので全く信じられない様子であった。予定よりも順調に基地には到着し、イヴァンの案内でゲートを抜け空軍基地の司令官に挨拶することが出来た。短い時間ながら基地の簡単な紹介の後、我々は小型のバスに乗って飛行中隊へ向かい、飛行機とのご対面となった。


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これまで、日本の友人達は運用中の基地をベースビジットしたことはまるでなかった。彼らが基地を訪ねることが出来る唯一のチャンスはAirShowだけである。それは、全く次元の違うものである。我々のガイドは若いF-104パイロットで、フライトラインに案内してくれた。三機のF-104が翼を並べて駐機していた。その他にもシェルターの中に何機かが見えた。パイロットによると一日に2回のフライトがあるそうである。ひとつは4機で午前中、もう一方は3機で午後とのことであった。パイロットと話しながらフライトラインで写真を撮りながらタクシングしてくるF-104を待った。


タクシーウェイの端で待っている我々の手を伸ばせばすぐ届く距離をスターファイターは通り過ぎていった。外部燃料タンクを付けたもの、全くクリーンなもの等、いくつかの種類の飛行機が我々の前を通り過ぎて行った。Grazzaniseでは37°Stormo 9°Stormoの両方の飛行隊のF-104が見られた。これらのうちいくつかはイタリア最初F-16が到着するのTrapaniから移動してきたものらしかった。イヴァンでさえTrapaniの機体を見られて非常に喜んでいた。地元の彼の友人が”新しい”スターファイターを撮影のためにシェルターの外に引っ張り出してくれた。


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パイロットは我々を放って行ってしまったので我々は自分たちでF-104が戻ってくるポイントへと急いだ。残念なことに何機かのF-104は戻ってくるのが早かったためにドラックシュートを曳いている写真を撮ることが出来なかった。しかし、我々は急いで次のペアが降りてくるところまで行った。一機のF-104はそれは素晴らしい新品の綺麗で明るい黄色のドラックシュートを曳いて戻ってきた。これは最高のショットである。ローカルフライトのMB339が我々の前をタクシーしていく前にドラックシュートが片づけ終わるまで何回かタッチアンドゴーをしていた。


二つのフライトの間、我々は時間が一杯あったのでパイロットクラブを訪問しおみやげのTシャツや帽子、パッチを買った。パーティルームで飲み物を飲みながら一休みした後、フライトラインに写真を撮りに戻った。ステップラダーを引きずって来て、スペシャルアングルで写真を撮った。4人の日本人と二人のオランダ人の写真家は3機のスターファイターの前で記念写真を撮った。複座のTF-104を含む何機かが屋外に駐機している滑走路の向こうにあるメンテナンスハンガーにもチョット立ち寄って写真を撮った。


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セカンドフライトを撮るために滑走路の中程にポジションをとった。ここはスターファイターが離陸して足が離れるであろうところと期待していた。ところがスポッティングに丁度良かった!!3機のスターファイターの真横とローカルフライトのMB339をとることができた。時間もそろそろ押し迫ってきていた、事前許可は基地には15:00までしかいられない。幸運なことにイヴァンがF-104の到着まで時間を少し伸ばしてくれるようにアレンジしてくれた。朝少し早くに案内してくれた若いパイロットが私たちの要望をよく聞いてくれた。2機が美しく低いフライバイをして着陸した。


結局、16:00に我々はGrazzanise を後にした。しかし、我々にはIstrana まで700km以上の行程が今晩残っている。しかし、我々が長い道のりをドライブする前にイヴァンは地元のチーズショップ(おいしかった!!)に案内してくれ、最初のautogrill で遅い昼食を食べた。何時間かドライブした後、イヴァンはあと残りの400kmを一般道で行こうと提案した、しかしドライバーのフランクとイワンは快適で便利な高速道路で行くことにした。イタリアンスタイルでのMercedes Vitoの運転は長い一日の後ではもう特別なものではなかった。Istrana まであと200kmのところでautogrillで夕食をとった。イヴァンとイワンはイタリアンスタイルで明日の予定を議論した。何にも特別なことではない、でも日本の友人達にとってはとってもショックだったと思う。ごめんよみんな!!


最後の2時間はとってもスムースであった。高速道路を降りるときになってイヴァンが料金を払おうとしたイワンを驚かした。何のことはない、イヴァンは最後の一般道60kmを一般道で走ったのである。最後に我々は旧Treviso 基地のすぐ脇のホテルに宿を取った。0:15長く充実した一日が終わり、床についた。



2003年 429日 火曜日


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900km以上移動したあとではとってもよく眠ることが出来た。我々が8時に起きたときイヴァンはとっても美しいホテルを用意していた事に気が付いた。部屋はとても綺麗で、快適なバスルームであった。朝食はたくさんの古い記念品が壁に掛けてあるリビングルームのような部屋でとった。Masamiはイタリアのお茶が日本のお茶と全くにていないことを発見した。幸運なことにイタリア人はコーヒーを作るのが非常に上手い。ホテルの外から観光旅行者風の写真をいくつか撮ったあとでホテルをあとにして10km先のIstrana 基地に向かった。


ゲートについて数分後、我々は基地の中に案内され、Grazzaniseに比べるとフォーマルでないアレンジをしてくれていた。イタリア空軍はなんとイヴァンを我々の公式な案内役として指名してくれていたのである。おかげで彼は一日中任務として我々をワゴンで基地内を案内してくれた。天気は薄い雲が全体を高く覆っていて屋外に駐機してあるF-104スターファイターには日が当たらなかった。しかしながらフランス空軍のJaguar が離陸のためにタクシーアウトしてくるのを丁度良い場所からとることができた。


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ユーゴスラビアで戦闘が行われているとき多くのヨーロッパの空軍はその航空機をイタリアに駐留させていた。フランスはJaguar Istrana に派遣しており、3機がまだ残っている。3機目の機体がまだフライトラインに残っていてイヴァンは我々を写真を撮りに案内してくれた。プラットフォームのすぐそばに、外部から目隠しになって機体を守っている丘がある。この丘は我々にとってはいつもと違う高いアングルを提供してくれる格好の材料となった。その丘は背の高い雑草で覆われていたので頂上に登るにはジャングルを探検しているようだった。ただし、登った価値は十分にあった。


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そして、我々が待っていたときが来た。3機のF-104がクリーンでとても低く離陸したのである。イヴァンは我々を滑走路中程のエキサイティングな写真が撮れるところに案内してくれた。一日に2回のフライトしかないのである。我々は集中して機体が戻ってくるのを待った。我々はドラックシュートを曳いてくる写真がとれる所の見当を付けて待った。ドラックシュートを曳いてくるスターファイターを撮りたかったのである。



残念なことに2機はこちらに向かってくる前に速度が遅くなっていたのでドラッグシュートは地面に落ちてしまった、しかし3機目は速度を維持して入ってきてくれた。


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午前中のミッションは終わり、我々は他のことを探しに行った。綺麗な塗装をしたAMXがタクシーウェイをトーイングされていった。これは易々と我々の餌食となった。またたくさんの写真をハンガーに行き、おみやげを買う前にフライトラインで撮った。おいしいイタリアのパスタとチーズを食べながら最後にカプチーノを飲み、午後の部に備えた。フライトラインに戻ってみるとGrossetoから来たと思われる2機のTF-104Gを見つけた。現在残っている4機のF-104Sで構成された素晴らしいフライトラインである。ステップラダーをいくつか持ってきて様々な角度から6機のスターファイターで構成されるラインの写真を前から後ろから撮った。


フライトラインを歩いているときにLuigino Caliaro が我々と少しだけ合流した。イヴァンは我々を3機のAB-212のところに案内してくれた。離陸とホバリングの写真を撮ったあと2機のAMXのが我々の前をカメラが届くぐらいの距離をタクシングしてくるのに出会った。しばらくすると5機のF-104がエンジンをかけ始め我々は離陸の写真を撮るために基地の反対側へ急いだ。2機の32°StormoAMXがスターファイターが離陸する前に降りてきた。ラッキーなことにTF-104G F-104S'sとは別に離陸していった。


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スターファイターが戻ってくるのを待っている間、フランス空軍のフライトラインに3機のJaguar を撮りに向かった。もう一度丘の上に登る冒険の前に、カラフルなAMXが到着し、目の前を通り過ぎていくのに出会った。そそてP-180 Avantiをプラットフォームで撮影した。作戦は続き、AMXを入り口から眺めつつ丘へ向かった。その途中で、イタリアのトーネードが頭上を通過するのが見えた。世界で一番トーネードが大好きなSachikoは非常に興奮した。しかし、トーネードは戻って来なかった。


結局、イヴァンは、我々を屋根に上がれるようになっている小さい倉庫のような建物に案内してくれた。この建物は我々に飛んでいる飛行機を間近に見られる素晴らしい眺めを提供してくれた。最初のF-104 2機が戻って来たのを思い思いにベストなアングルとレンズで撮影を楽しんだ。最後に明らかに他とは違う音を響かせてTF-104Gが現れた。日本のスポッター達にとっては世界でもっとも美しいジェットサウンドを楽しむ最後のチャンスとなった。オーバーヘッドアプローチで進入したあとパイロットはタッチアンドゴーを実施して我々に追加のチャンスを与えてくれた。フランクは彼の携帯電話をテープレコーダー代わりに使ってツーシーターの素晴らしい泣き声をする恐竜の音を録音した。


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AMX中隊でいくつかの記念品とおみやげを買い、タクシングするAMXの写真を撮り、基地をあとにする時間となった。基地をあとにするために、軍のワゴンを我々の赤いMercedes Vitoがとまっている駐車場に行く前に、イヴァンが最終フライトを担当したという飛行機のゲートガードの前で写真を撮った。イヴァンはその後、我々を家に案内してくれて彼の奥さんのナディアを紹介してくれた。イワンはフィルムを一箱を受け取った。そして、Coneglianoのステファノのアイスクリームショップにイワンの地元のスポッター達と会い、コダクロームを渡すために立ち寄った。


Istranaのベースビジットは17:30に終わったが、思いの外Coneglianoにいたため、我々のスケジュールは非常にタイトなものとなった。当初は今回の旅行の”文化的な時間”としてベニスによる予定だった。しかし、ベニスに着くには20:00をまわってしまう。しょうがなく計画を変更することとなった。イワンとToruはアイスクリーム屋にのこり他の面々は近くのピザ屋にピザを買いに行った。イワンがフィルムを売りさばいている間に他のみんなはピザとイタリアの友人であるステファノがアイスクリームを分かれる前に振る舞ってくれそれを楽しんだ。


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21:00にオーストリアへと我々は向かった。ドライブをしながらアチコチのホテルに電話をかけてみたがなかなかうまくいかないものである。結局50km近くも回り道をしてしまった。フランクの奥さんのイングラッドがオランダのコールセンターになってくれ我々に泊まれそうなホテルを探してくれた。オーストリアのホテルはほとんど満杯で、Udineに泊まるのが唯一の選択肢になった。ホテルのレセプションが電話でUdineの周りから道案内をしてくれて大変助かった・・・。



2003年 430日 火曜日


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我々はゆうに250km先のZeltweg基地を9:0010:00に訪れるためにかなり早起きをした。我々はホテルを6:18に出発し、イタリアとオーストリアの国境まで110km130km/hのスピードで飛ばしていった。これは日本の友人達にとっては全く異常な体験に違いない。パスポートコントロールも税関も無しで国境を越えたのである。オーストリアについて最初の休憩挙で朝食をとり高速料金ステッカー(注 高速道路は有料で使用期間を区切ったステッカーを買うシステムになっている)とロードマップを購入した。


Zeltweg基地はすぐに発見できた。丁度我々が基地に着く直前に、2機のドラケンが真っ青に晴れわたり白い雲が浮かぶ中に飛び立って行った。入り口ではすべての手続きがオーストリアの受け入れ側でなされていて非常に簡単であった。何の手続きもなく、ただ我々は自分たちの車で案内されるままに付いていくだけであった。彼はまっすぐにおあつらえ向きに真横を向いているドラケンとPC-7のプラットフォームに連れて行ってくれた。すぐそばにはAlouetteヘリコプターがあった。


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ZeltwegのガイドによるとZeltwegのドラケンはアラートの状態に付いているとのこと。このことは今日同じ2,3機のドラケンのみが何回かパトロールに飛ぶだけであり、他のドラケンの飛行はもう一つのドラケンの基地であるGrazということである。これはイタリアでスターファイターを見たように6から8機のドラケンが飛ぶと思っていた我々をガッカリさせた。不運なことに午前中はあと一回しか飛んでいるドラケンを見るチャンスは無いと言うことである。


駐機している飛行機の写真を撮った後、2機のドラケンが戻ってくる写真を撮りに滑走路脇に急いだ。ドラケンが着陸してくるのは予想以上に早かったので着陸は近寄って撮ることができなかった。しかし、それらのタクシングをベストなポジションで撮ることはできた。とても美しい緑の山をバックに写真を撮ることができるZeltwegは飛行機の写真を撮る写真家にとっては最高の場所である。両方の飛行機ともにあっという間にタクシーバックしていったのでほとんど写真を撮る間がなかった。20分後に同じ2機が飛ぶ予定になっているとのことなので我々はもとの場所に戻って撮影することにした。


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滑走路の脇で離陸する写真を撮った後、我々は車に乗って滑走路の反対側に行った。こちらは基地の運用に入っている側で3機のドラケンがアラートに就いていた。これらのハンガーの近くを通るには特別の許可が必要であり、アラートに就いている3機のドラケンは武装しており、ハンガーに見ることが出来るものの近寄って写真を撮ることができなかった。幸運なことに空軍の司令官がZeltwegを訪問にしており、その乗機であるSaab 105を撮ることができた。この飛行機は背景に雪を頂く山が入り非常に美しい風景写真を撮ることができた。


15分ほどでドラケンが戻ってくると言うことなので我々は基地を後にし、位置の外の良い撮影場所に移動して着陸の写真を撮影することにした。非常に不運なことにドラケンは我々がゲートガードで写真を撮っている時に予定よりも早く戻ってきてしまい、5分の差で撮ることができなかった。一同非常にガッカリした。何はともあれ色々な手助けと案内をしてくれたグッチ大佐にお礼を言い、基地を後にした。


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グッチ大佐によると次のフライトは2時間後の14:00頃であり、スイスのPayerne基地までは800kmを残している。そしてどんどん雲が多くなってくる天気なのでこれは待たないことにした。その代わり、我々はF-1レースが開催される街の反対側にあるサーキットへ旅を続ける前によることにした。”A1 Circuit”は全く静かでホームストレートやピットレーンを歩くことが出来た。2週間後に2003 F-1オーストリアグランプリが開催される会場の何もかも近くで見ることができとっても楽しい訪問だった。


ピットレーンを歩いていると表彰台に登る機会に恵まれ、もちろん記念写真を撮った。サーキットのレストランでおいしいご飯と食べた後、我々はミュンヘンへと向かった。イヴァンがIstranaからメッセージを送ってきてくれ、現地は今雨だと言っていた。しかし、3機のイタリア空軍のトーネードが今朝降りてきたと言っていた。Sachikoの顔に何とも言いようがない表情が浮かんだ・・・・。


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何時間かドライブした後丁度ラッシュアワーのミュンヘンにさしかかった。この町には何の滑走路もないので街を素通りした。街を過ごした後で夕ご飯を食べることになっている。そんなわけで、休憩前には街を抜ける必要があった。フランクとイワンのプランではその先で高速道路を降り、道路のすぐそばにあるLandsberg基地による予定である。


Landsberg基地に着くと丁度2機のドイツのUH-1Dヒューイが降りてきた。それをフェンス越しに見たが写真を撮るチャンスはなかった。11機のC-160D Transallsが確認できた。次のプランは15kmほど田舎に行ってLechfeldに行くことである。Lechfeldにはどいつのトーネードの基地がある。我々の中にいるbigなトーネードファンがいるからである。Sachikoには大変残念なことであったが、イタリアのトーネードの所属基地であるGhedi 基地を見に行くのはキャンセルされていた。そんなわけで我々はLechfeldをチョットだけ見ていくことにしたのである。けれども19:00をまわり長い週末の前で全く基地は静かであった。


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Lechfeldの守衛は我々がF-104のゲートガードの写真を撮ることを許可してくれなかった。しかし、Sachikoは基地の看板の写真を撮っていた。しょうがないので何か見えないかと基地の周りの小さな道をグルッと回ってみることにした。驚いたことにフェンスの向こうの林越しに赤いライトが見えた。でも、我々はトーネードだとは思わなかった。しかし間違っていたのである!!4機のトーネードがババリア上空のミッションのためにエンジンをスタートさせていた。慌てて、基地外周の滑走路端が見える場所に移動して、2x2のドイツのトーネードが離陸していくのを見た。


Sachikoはとても幸せそうでトーネードがフルアフターバーナで離陸していくのを見てはしゃいでいた。フランクとイワンもSachikoが飛び上がってはしゃいでいるのを見てつられてはしゃいでいた。サンキューSachiko!!トーネドが行ってしまうのを見送った後およそ60km離れたMemmingenまで移動することにした。Memmingen には2002年までトーネードの基地であった。しかし街に入る前に基地に着いたときには何も見えないぐらい真っ暗だった。 Click to enlarge


街のはずれのホテルに行く途中、我々はホテルにはたった3つの部屋しかないことに気が付いた。我々一行は6人である。ホテルの部屋に荷物を放り込んだ後、とても美しい街の中心で"Der Blaue Staube"という地元の人に教えてもらったレストランに入った。ホテルに戻って寝る前に、とってもおいしい料理とドイツビールを楽しんだ。フランクはその夜のベッドでの写真によると、ほんのちょっとのビールしか飲まなかったようである。



2003年 51日 木曜日


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360km離れたスイスのPayerne に行くために、またもや6:00に起きることになった。幸いなことにヨーロッパ中で51日は祝日で道路はどこも朝は空いていた。時間を節約するためにガソリンスタンドのレストランで朝食をとった。今日はドイツからオーストリアを通り、スイスへと移動するのである。最初の国境は130km/hで通過した。でも、スイスの国境はパスポートコントロールで停まらなければ行けなかった。日本の友人達はパスポートにスタンプが押してもらえると大喜びであった。ようやく彼らは国境を越える”許可”をもらったのである。


10:30Payerneについた。我々が車を停めると同時に最初の飛行機が飛び立っていった。みんなで慌ててシェルターの上に行った。そこにはスイス、ドイツ、オランダから来ているスポッター達が既に思い思いにPayerneの一日を楽しんでいた。日本の友人達は基地のまわりにフェンスも何もなく機体にわずか4,5mのところまで何もなしで近づけることにビックリしていた。こっちにしてみると基地の周りを完全に高いフェンスで覆ってしまっている方が信じがたいのだけれども・・・・。 Click to enlarge


今日は4機のF/A-182機のF-5Eがそれぞれ午前と午後にそれぞれ2回ずつ別々のミッションに就いているようだった。300mmのレンズ一本で滑走路上の離陸、着陸すべてが撮れる。F/A-18は、滑走路の向こう側をタクシングしていったが、F-5Eは我々の側をタクシングしていった。シェルターの上にいると色々なアングルから写真を撮れてあっという間にフィルムを何本も使ってしまった。午前のミッションが終わるとスイス人のスポッターのChristoph Kuglerとその友人が滑走路の向こう側にある新しい博物館に案内してくれた。滑走路の向こう側に行くのに、滑走路を車に乗ったまま横切っていくのである。これは間違っても新田原では出来ないだろう!!


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新しい博物館は本館の他にシェルターを2つ持っている。プラットフォームの手前にはMirage 3SHunterが日の光の中にいた。後ろに木があるのでこの風景は現役時代を彷彿とさせるものである。そして、最初のMirageを撮るチャンスとなった。それらの飛行機の写真を撮った後、Christophは我々を管制塔のすぐそばの小さなレストランに案内してくれた。そこで日だまりの中、昼食となった。


次のフライトはシェルターから撮影し、飛行機が飛んでいる間にゲートガードのVampiresとその他の飛行機の写真を撮った。丁度最後のミッションの前にいくつかのお土産を博物館で買うことにしていた。不幸なことに、予想よりも飛行機が早くに戻ってきてしまって買い物は結局出来なかった。太陽が丁度回り込んできたので、滑走路の反対側から写真を撮ることができた。ホーネットが滑走路からタクシーウェイに出るところを撮ることができた。この場所からは背後に雪化粧した山が入り素晴らしい景色の中である。


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Kenichi2日から仕事があるので、彼は近くのNeuchatelから電車に乗ることとなった。帰りの列車に乗るためには我々は博物館に戻っている時間がない。しかし、我々には後2日も時間があるので機会はまだ沢山あった。Neuchatelの駅は簡単に見つけることが出来た。


そして17:36パリ行きのヨーロッパの新幹線(TGVという)に乗るKenichiを見送った。今や5人となったのである。我々はクリーミーなミルクシェークを片手にホテルのあるBuochsへとむかった。


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Buochsは、スイス空軍とPilatusの工場で成り立っている街である。この基地もまたフェンスの全くない基地である。だから滑走路を横切って、基地の周りを一周できるのである。今晩泊まるKrone ホテルは最適な場所にあり、意外にも今回の旅行の中では一番安いホテルのひとつだった。綺麗な近代的な部屋にバスルーム付きである。ホテルには伝統的な雰囲気のレストランがあり、そこでおいしい食事をとりながら明日の計画について議論した。



2003年 52日 金曜日


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最初の目的にまでわずかに15kmなのでようやくいつもよりゆっくり寝ることが出来た。8:00にイタリアのパックに入ったクラッカーよりもだいぶマシな、スイスのおいしい朝食を食べた。コーヒー、クロワッサン、スイスのチーズ、オレンジジュースはホントのご馳走だ。予定のまるでハッキリしない今日一日の前に我々は道路の向こうで少し買い物をして、Stans-Buochs基地に日本の友人達のために山岳シェルターを見に行った。大変ビックリしたことに新人が飛行機をどうやってトーイングするかの練習をしており、F-5Eをシェルターから引っ張り出してきていた。日の当たる中でタイガーを撮ることが出来た。5分後にはもとの山の中のシェルターに戻ってしまった。なんてラッキーなんだ!!


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15kmAlpnachにはStans-Buochsから10分で着いた。しかし、近くに来て道案内にとまどったせいで2機のCougarsの着陸は見逃してしまった。その代わり、次のフライトを待った、が結局見ることができたのは民間のAlouette 3だけだった。しばらく自転車に乗った地元のスポッターとおしゃべりしてこの後のアドバイスをもらった。しかし、手始めにフェンス沿いに二つのシェルターの前に止まっている3機のAlouette 3に向かった。それとほとんど同じくしてシェルターからフライトラインにCougarが出てきたのでそれを撮影して、またAlouetteのところに戻った。ヘリコプターの周りを写真を思い思いの場所から撮った。これはまるでベースビジットだった、基地の外だったけど・・・。


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スイスのスポッターは我々のためにアチコチの知り合いに連絡を取ってくれてどこに行けばよいかを調べてくれた。しかし、残念なことにすべての基地の電話番号が分からなかったので管制塔に聞きに行くことになった。しかし、その途中でCougarが着陸してきた。すぐに我々はとって返し、着陸地点のすぐ横にある小さな丘から撮影した。ここで、ミッションから戻ってくるもう一機のヘリコプターも撮影した。


結局、飛行機がいることを期待してEmmenに行くことになった。明らかにスイス全土をベストなショットが撮れるようにアチコチと行った。スイスのスポッターは彼の車で(自転車はトランクにしまって)我々を案内してくれた。ちょうど基地に着く直前に、一機のF/A-18が飛び立つのを見た。そう、まだ運は完全には使い果たされていなかったのだ!!再び滑走路を横切って一般道に出た。そろそろ日本人にもなじみの光景になったに違いない。そこで、我々はUS Navy C-130がいるのにビックリした。地元の人によると最初のスイスのF-5Eをアメリカに運ぶために来たのだそうだ。


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地元の人の話ではホーネットはしばらく戻ってこないとのことだった。その間飛行機が外にいないかとアチコチ基地の外周を探した。F-5E 飛んでいった一機のホーネット分だけ開いているF/A-18のねぐらの前を通り過ぎていった。我々はゲートガードとして残っているHunterのところでチョット写真を撮った。写真を撮った後、管制塔に向かったが、そこでフェンス越しに見たものはまるで使われていないプラットフォームだった。全ての飛行機とヘリコプターはハンガーにしまい込まれていた。


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もう失うものは何もないので、我々はゲートにプラットフォームに入って、写真を撮ることが出来ないかを尋ねた。我々の友人である日本人のことを話すと、守衛は人を呼んでくれた。やってきた彼は非常にフレンドリーで基地の中を一周案内してくれた。PC-6, PC-7 2機のAlouette 3が屋外にあり、それらの写真を撮ることが出来た。彼は非常に親切で、メインハンガーの中も見せてくれ、PC-9や軽量機を見ることができた。15分後にひとまわり終わり、ガイド役の彼が我々に”軽量機だけに興味があってジェット戦闘機は見ないのか?”と尋ねた。


言うまでもなく、我々はF-5EF/A-18も好きである。すると彼は我々をバンに乗せてジェット機のところに案内してくれた。そして、彼はハンガーの中を一周案内してくれた。ここで何機かのF-5E2機のHawkを見ることができた。戻る途中で準備完了しているHornet J-5001(テスト機)が駐機している格納庫の前を通りがかった。クルーチーフとおしゃべりをして格納庫の写真を撮ってから、我々は車に戻り基地とを後にした。10分後にホーネットが飛び立っていった。そのごタクシーウェイに場所を変えた。


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そうするとすぐに、J-5001が我々の目の前をUS NAVYのハーキュリーズを従えてタクシングして行った。なんてラッキー!!それぞれの機体が行ってしまった後、近くのスタンドでお昼を食べた。フランクとイワンはケバブを日本人の写真家達はもっと身近なハンバーガーをつまんだ。食事も終わる頃、最初の飛行機が頭上を戻ってきたので、我々はもっと写真を撮るために場所を探しに行った。管制塔を離れる前にパトレイユ ド スイスがフライトに出ることをチェックしてきた。そしてそれらの格納庫は開いていた。でも、残念ながら飛ばなかった。


我々はしょうがなく、新しいゲートガードを撮るためにStans-Buochsに戻った。太陽は写真を撮るのに丁度良く、顔を出していた。イワンは車をフェンスのすぐ近くに停めて良い写真を撮るために車の屋根に登ることにした。日本人達はこの信じられない行動を笑ってみていた。しかし、Toruはイワンのまねをすることに決めた。ここでは、Mirageの良い写真とともにMercedes Vitoの良い写真も撮ることが出来た。


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Masamiは美しい風景のStansにある印象的ないくつかの気の写真を撮った。


17:00過ぎに我々はホテルに戻り、あるいて街中を散策した。今晩はLuzernで夕食をとることにして、有名な街の中心にある木製の橋の近くのレストランで食事をとった。フランクとイワンはスイス名物チーズフォンデュを選んだ。そして、昨日と同じ時刻にBuochsのホテルに戻った。



2003年 53日 土曜日


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今日はすることもないのでノンビリとしていた。朝食は8:00にとり、Dόbendorfまでの簡単な行程である。ここで空港に行く前に博物館に寄りたかった。我々がDόbendorfの博物館に着くと元軍用のJu-52が到着するのを目撃した。残念ながら、スポッティングの場所は1kmほど向こうで、写真を撮ることが出来なかった。イワンとフランクは日本人達に見せるためにこの有名な基地を一周することにした。そこで彼らはシェルターエリアと”take off hill”を訪れた。博物館に行こうとすると先ほどとは違うJu-52がタクシーアウトしてきた。慌ててオールドタイマーの写真を撮りに戻った。


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博物館に着くと古い昔の建物は取り壊されており、新しい建物が建っていた。全ての飛行機は中で配置換えされており、博物館の中を順路に沿ってたどると現代までの飛行機の歴史が分かるようになっている。新しい建物は綺麗で、天井からも飛行機がつり下げられて展示されている。中を見た後、日本人達はお土産のTシャツやパッチ、ステッカーやらを買い込みにミュージアムショップに行った。


そして、Zurich-Klotenへと向かった。Masamiはテラスから民間機を撮りたいと思っていたので少し早めに空港に向かった。最初にチェッインをして荷物を預けた後テラスに向かった。ターミナル屋根設置されたテラスにはいる前に厳重なセキュリティーチェックを通る必要がある。テラスには良い撮影場所とともにレストランまで設置されている。そこで我々は写真を撮りながら同時に昼食をとった。


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時間が来たのでターミナルに戻り、出発のために我々の飛行機が待っているゲートに向かった。しかし、ビックリすることに我々の乗るフライトのKL1962のサインはそこにはなかった。段々時間が経って、オランダからの飛行機が遅れる可能性があるのが分かった。そして、そこで問題が発生した。日本帰る接続便にスムースに乗り換える時間がどうもなさそうなのだ。トランスファーデスクに連絡して状況を確認すると、日本人達が乗る東京行きの飛行機には接続のための時間が2時間あるが、丁度同じくらい飛行機が遅れそうなのである。トランスファーデスクによると、3人の日本人写真家達は他のフライトに乗って”スイス”から出なければ行けない。みんな慌ててその飛行機めがけて走った。


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全く”さよなら”も言う時間もなかった。慌ててゲートまで行き、日本人達は搭乗ゲートを走って抜けていった。フランクとイワンはアムステルダムで乗り換えるのは無理だった一時間遅れの便で飛び立った。天気はとても美しくアルプスの景色を堪能した。アムステルダム 好きポール空港に着くとJALのボーイング747JA-8087)がゲートF6にいるのが見えた。我々が飛行機から降りてE4ゲートからE6ゲートに行くと飛行機がプッシュバックされていった。ここで、我々は日本人達がオランダの基地をいつの日かまわらなければ行けないという重大な問題が残っていることを知った。しかし、我々は彼らが安全に日本に帰るフライトに乗れた事をとっても喜んだ。